お惣菜に罪悪感
毎日の献立、考えるのも作るのも大の苦手!という人には天の助けのようなスーパーのお惣菜。ただ、これを食卓に並べると心がチクチクザワザワしてしまう人がいて。
お惣菜に罪悪感
正しい恋愛の悩み方:愛のトリセツ、作るのは苦手だけど買ってくるのも心がざわめいてしまう、というあなたへメッセージです。
私が自分で食事を作るようになったのは実家を出るきっかけとなった最初の結婚の時、28歳のこと。
それまでは実家の母が全部作っていました。
経済的にも生活面でも自立したくて、何度も「ひとり暮らしがしたい」と訴えた20代でしたが、ことごとく却下。
古い考え方がまだ根強く残っていた1980年代の親たちは、簡単にひとり暮らしを許してくれませんでした。
いやいやひとり暮らししなくたって食事くらい自分でつくれるでしょ?と思うかもしれませんが、私の母は台所を私が使うことを非常に嫌がるんですよね。
「少しは手伝いなさい」という割に、料理という面では「実践」させてくれませんでした。「見てなさい」とはよく言ってましたけど。
見ているだけってひとつも身にならないしつまらなかったので、結局私はいつも台所から離れてしまっていたのです。
ってまぁここまで私の言い訳をつらつら書いてしまいましたが。
果たして28歳になって初めてお米を研ぐというところから始めた私。
家庭科の調理実習以来の実践の日々が始まりました。
ということで、今日も3つに分けてお伝えする愛のトリセツ、はじめます。
作るのめんどくさい
28歳で結婚して食事をつくること。
当時は音楽教室の講師の仕事もしていたため「家事の段取り」の大切さ、「食材の準備」の大切さを毎日痛感することになります。
何もかもが初めて状態の私にとっては、新鮮で刺激的なことでもありましたが、最初の結婚の旦那さんは食事にさほどこだわりはありませんでした。(注:私の最初の結婚は28歳~40歳。53歳の時、今の旦那さんと再婚しています。)
その最初の結婚の夫、つまり元旦那さんは「お腹がいっぱいになればいい」という人でした。
スパイスにこだわる必要も、素材にこだわる必要もなくて、お腹が満たされるものであればOKだったので、たぶん料理をつくる側からすればさほど大変なことではなかったはずです。
でも、いかんせん初心者には何もかもが「大変なこと」ばかりなのです。結婚した翌年には長男が生まれたので、そのうち離乳食が始まると大人用・子ども用という区分けが生まれます。
ただでさえ食事をつくることが得意でもなく、食べることは好きだけどつくることには大して興味もない私は、だんだん料理に対して苦手意識に面倒くささが加わってきてしまいました。
それでなくても育児でヘトヘト。特に体力的に無理をしているわけでもないのに、それまで自分のことばかり考えて暮らしていた私が、自分以外の誰かのことを常に注目していなければならないその環境に、気持ちが疲れてしまっていたようです。
となると、どうしても二の次になるのは「オトナのこと」。
子どもが食べるものは気を遣うけれど、オトナは「お腹が満たされればそれでいい」と元旦那さんのような考え方になっていきました。
そこで目に付いたのが「お惣菜」です。
なんだこんな便利なものがあったんじゃないか。
冷凍食品はチンして食べるとイマイチなことも多いけど、出来上がっているお惣菜ならホカホカだし・・・と、お惣菜が充実しているスーパーが大好きになりました。
でも。
お惣菜を買うたびに、ちょっと心がチクっとするのです。
なんとなく罪悪感。
料理をつくることがめんどくさいと思ってしまう自分に罪悪感。
Happyなはずが、ちっともHappyな気持ちになれないお惣菜。
なんだろう。
どうして。
自分の心の葛藤が重苦しく感じたのです。
作らねば、作りたい、作ってくれたら
たぶんもともと料理が苦手・・・というか、料理に必要であろうさまざまな知識が、あまりにも乏し過ぎたのだと思います。
難しく考えることもなく、そんなにあれこれ手順を守ることなく、美味しく簡単な料理が世の中にはあることを、今なら肩に力を入れることなく受け容れることが出来ます。
今であれば、ネット上に恐ろしいほどのレシピが転がっていますしね。動画もたくさんあります。
だけど当時はそんなものはなく、料理本か母親伝授のレシピのあれこれ。
私はいろいろ母に料理している様子を見せられてはいたけど、いつも途中で逃げていたので「出来上がったもの」しか知りません。
当たり前のように料理が目の前に出てきていた独身時代。いちから考えなくてはならない結婚生活。
近所のママ友たちと公園にいても、午後3時を回るころになると会話に出てくる「今夜何つくる?」という言葉。
それに対してすんなり「肉じゃが」とか「青椒肉絲」とか出てくるママたちに、心から「すごいなー」と尊敬の念を抱いていました。
私にとっての肉じゃがや青椒肉絲は、ものすごく手順の多い料理のひとつでしたから。
それでも中にはハッキリと「全然考えてない」「これからスーパー行って考える」という人もいて、心底安心したものですが、私は車で5分の実家に夕食時駆け込んでしまうことも多く、結局は母を逃げ場にしていたんですよね。
だものだから、お惣菜を買おうとするとものすごく罪悪感が生まれるのです。
- 母はちゃんと私にご飯をつくって育ててくれたのに、私はご飯をつくることさえ億劫でしかない。ダメな母親だ。
- 誰かご飯作ってくれないかな。
- メニューだけでも考えてくれないかな。
料理に関しては絶大なぐうたら女の私はいつもどこかでそんなことを思って、自分の罪悪感に火をつけては心で懺悔していました。
食べたいものは何ですか?
しかし今の私は、料理に関して罪悪感も劣等感もありません。
歳を重ねて料理に慣れたから、ですって?
いえいえとんでもありません。
未だに料理は苦手だし、献立考えることも大嫌いです。
でも、罪悪感はありません。
なぜなら、料理が苦手な自分も、献立を考えることが嫌いな自分も、それでいいと思っているから。
人には得手不得手があります。
私に得意なことがあるように、私に不得意なことがある。
その不得意のひとつが、料理だというだけのことです。
だから。
本当に作りたくなければ、ものすごく美味しいと定評のあるお惣菜を堂々と買います。それが毎日本当に作りたくなかったら、きっと毎日お惣菜を買うでしょう。
ただ、健康診断でLDLコレステロールが高めに出たことと、胆石症で手術をした経験のある身としては、たとえお惣菜でも栄養成分は気にします。
なので莫大にお惣菜を摂取することはありません。
外食も大好きで、今の旦那さんはいろいろなレストランに連れていってくれますが、それも度重なれば身体にはあんまりよろしくない。
昔は、お惣菜を買うことで何か世間の目に対する罪悪感や、ちゃんと料理をしてくれていた母親に対する罪悪感や、ご飯をつくることが嫌いな親でごめんねという子どもに対する罪悪感に苛まれていましたが。
今は違います。
あまりお惣菜や外食が増えると、何より一番身近にいる「自分」に対して、「自分の身体」に対して、雑に扱っているような気がして申し訳なくなるのです。
生まれてからずっと一緒にいるこの身体には、心から感謝しているので、せめてものお礼の気持ちで「身体に良いもの」「身体に良さそうなもの」を摂るようになりました。
そのための料理なら、ひとつも苦にならなくなっていたのです。
今は時々買うお惣菜を堂々と楽しむことができるし、考えることが苦手な献立は、週末に旦那さんと知恵を出し合って1週間分メニューを決めておくことにしています。
素材を買うことも、何をつくるかということも、もう悩まなくていいのです。
好きなものを好きな気分で作ればいい。
時にはお惣菜ばかりの日もあるけれど、それで全然OK。
肩のチカラが抜けた食卓は何よりほっこりあたたかい。
最高じゃないですか。
stand.fm音声配信|お惣菜に罪悪感
stand fmにてラジオパーソナリティとして、音声でも配信しています
では改めて、今日のメッセージ
お惣菜に罪悪感
自分の人生において、どこか罪悪感を抱いて生きていると、毎日がつまらないものや苦しいものになってしまいます。あなたは誰に何に罪悪感を抱いていますか?